LOGIN今日は、|豪剛《ハオガン》の命日である。
|墨余穏《モーユーウェン》は 「父ちゃん、酒と桃持ってきたよ」 と言って、|豪剛《ハオガン》の墓の前でどさっと座り込んだ。 酒瓶の先についている二つの杯にそれぞれ酒を注ぎ、本人と交わすかのように、墓に杯を当てて乾杯した。 |墨余穏《モーユーウェン》は一気に飲み干し、独り呟く。 「なぁ、父ちゃん。俺、死んだはずなのに何故か甦っちまったみたいでさ……。俺、これからどうしたらいい?」 |墨余穏《モーユーウェン》は万頭を齧りながら、答えてはくれない声を待った。 今でもあの頃のように|豪剛《ハオガン》と一緒に生きていたら、こうした迷いなど生じず、くだらない事で笑い転げ、こんな暇を持て余す事もなかっただろう。 |墨余穏《モーユーウェン》は墓の横に咲いていた蒲公英を引き抜き、花弁を一枚ずつ取りながら、|豪剛《ハオガン》と出会った頃の幼少期を思い出した。あれは五歳の夏頃だっただろうか━︎━︎。
両親が流行り病で同時に死んでしまい、住んでいた家が無くなった。一人残された|墨余穏《モーユーウェン》は、路上で生活せざる得なくなり、露店から出るゴミを漁ったり、物乞いをして何とか少量の食事にありつけるという日々を過ごした。 裕福な子供たちからは、差し入れだと言って泥水や泥団子を渡され、笑われる日々。着る服も端切れのように破れ、不衛生で汚い子供だと、通りかがる老若男女に忌避された。 やがて季節は夏から冬になり雪が舞い始める。 |墨余穏《モーユーウェン》の小さな身体は、限界を迎えようとしていた。身体全体に霜焼けが広がり、目も虚ろで、遂に話すことすら出来なくなった。 するとそこに、凍死寸前だというのに、更に追い討ちをかけるかの如く、子供の体を売り飛ばす輩が|墨余穏《モーユーウェン》の前にやって来た。「ほぉ。こんな所にいい品物が落ちてるじゃないか。売ったら金になりそうだな〜。おい、立て! クソガキ!」
歯が抜け落ち、顔も黒ずんだ汚らしい輩が、横たわる|墨余穏《モーユーウェン》の腹を蹴り、無理矢理立たせようとした。
凍傷で足の感覚を失っていた|墨余穏《モーユーウェン》は、当然立つ事も出来ず、その場に崩れ落ちる。「チッ。このクソガキ。立てやしないのか。なら、引き摺っていく。どうせその足も煮て焼かれるだけだからな」
衣の首元を掴まれた|墨余穏《モーユーウェン》は何も言えず、ただひたすらに引き摺られた。
もはや、痛みなど何も感じない。 生きる希望もなければ、恐怖もない。 残された選択は死しかないと、涙も出なくなった。 しばらく引き摺られていると、急に輩が立ち止まった。「おい! 何だお前! そこをどけ! 俺の邪魔をする気か?!」
輩の目の前に、どうやら誰かがいるようだ。
|墨余穏《モーユーウェン》は何も抵抗せず目を瞑り、耳だけで様子を伺う。「いやいや、子どもをそんな雑に扱うなんて、善人がすることじゃない。その子どもをどうする気だ?」
「はぁ? 売りに行くんだよ! 子供の肉は美味いからな! 金になるんだ! そこをどけ!」
輩の言葉に屈することもせず、男は引き摺られていた|墨余穏《モーユーウェン》を、「ふぅ〜ん」と言いながら覗き込むように見遣った。
男はまた続ける。「酷い有り様だな……。お前がやったのか?」
「違げぇーよ! 外で拾ったんだ。真冬に一人で寂しく死にそうだったからよ、俺が拾ってやったんだ。誰かに煮て焼かれた方が、こういう捨てられた子供は幸せだろうよ?」
|墨余穏《モーユーウェン》が薄らと目を開けると、男と目が合った。
その男は目鼻立ちが整い、柔らかい表情とは裏腹に、背が高く堂々たる体躯だった。 男は|墨余穏《モーユーウェン》を見つめながら、口元を緩める。「ふ〜ん。なら、いくらで売ってくれるんだ?」
「高いぞ。お前は、いくら出せるんだよ?!」
「ん〜、これでどうだ? 今から行こうとしているお前の親分より、高値だと思うが」
その男は金の塊を輩に差し出した。
輩はそれを奪い取ろうとしたが、男は金を引っ込める。「だめだめ。先にこの子を渡してくれないと。ほら、さっさと紐を解いて。早く」
輩は金の塊が貰えると顔をニヤつかせて、霜焼けで真っ赤に染まった|墨余穏《モーユーウェン》の両手、両足の紐を解いた。
そして、汚い歯を見せながら、|墨余穏《モーユーウェン》を男の方へ向かって蹴飛ばす! その行動を見た男は、目を細めながら帯刀を抜き出し、輩の足を斬り落とした。「あぁーーーっ!! な、何しやがる!」
「子どもを蹴るようなそんな足など要らんだろ? 誰がお前のようなゴミに金をやるかよ! この子は俺が預かった。じゃあな」
そう言って、男は震えている小さな|墨余穏《モーユーウェン》を抱き抱えた。
「よしよし、怖かったな。もう大丈夫だ。おじちゃんと一緒に帰ろう」
|墨余穏《モーユーウェン》は大きな胸元に抱き寄せられ、その温もりを肌で感じた途端、蓋をしていた壺から水が溢れ出すかのように、しゃくり上げながら涙を流した。
こんな愛情を感じたのはいつぶりだろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は、男の襟元をグッと掴み、離れまいとしがみついた。 「はははっ。可愛いやつだ! 俺は|豪剛《ハオガン》。お前の名は?」「モ、モー……、ユー……、ウェン……」
「いい名じゃないか。よし、今から少し走るからな。しっかりしがみついとけよ!」
そう言うと|豪剛《ハオガン》は呪符を胸元から取り出し、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って走り出した。
|墨余穏《モーユーウェン》は揺られながら|豪剛《ハオガン》の顔を下から見上げる。 そこには、大切なものを奪い返したような誇らしげな表情があった。|豪剛《ハオガン》の声が、記憶の中で木霊する。
「いいか、|墨余《モーユー》。強き者を味方にし、弱き者には手を差し伸べろ。賢く生きる奴は、そうやって自らの貧しさを遠ざける。生きる意味を知りたければ、先ずは足を知り、愛を向けるんだ」暖かい風が|墨余穏《モーユーウェン》の頬を伝い、|墨余穏《モーユーウェン》を現実の世界に戻した。
|墨余穏《モーユーウェン》は流れている雲を追いかけるように、透き通った青空を見上げる。(父ちゃん。今世では愛を向けられるだろうか……)
一瞬、|師玉寧《シーギョクニン》の顔が浮かぶも、|墨余穏《モーユーウェン》は、自信無さげに大きく息を吐いた。
しばらく茫然としていると、晩霞が空を赤く染め始める。 長居し過ぎたと|墨余穏《モーユーウェン》は供えていた酒を墓にかけ、立ち上がった。 すると、遠くから「|墨逸《モーイー》〜」と呼ぶ声が聞こえてくる。 |尊丸《ズンワン》だ。「|墨逸《モーイー》ここにいたんだね。そうか、今日は|豪剛《ハオガン》道長の命日だったね。邪魔をしてすまない」
「いいよ。どうしたの?」
「少し|墨逸《モーイー》に付き合ってもらいたくてね」
|尊丸《ズンワン》は、先日行った町のある亭主から、尊仙廟の庭で採れる特殊な薬草を買いたいと頼まれていたらしく、それを亭主に届けたいとのことだった。
近頃の夜道は危険が伴う。 つい先日、|墨余穏《モーユーウェン》も黄山へ幻妖を退治しに行ったばかりだ。 |墨余穏《モーユーウェン》は二つ返事で|尊丸《ズンワン》の護衛も兼ねて、町まで同行することにした。日が暮れ、先日行った昼間の町の景色とは打って変わり、夜も露店で賑わいを見せ、相変わらず活気があった。
「|墨逸《モーイー》。私はここの角を曲がった所に行ってくるから、ここの店に入って待っていてくれるかな?」
|尊丸《ズンワン》は目の前にある酒楼を指差して、|墨余穏《モーユーウェン》にここで待つよう促した。
「分かったよ。じゃ、中で待ってる」
角を曲がる|尊丸《ズンワン》の姿を見届け、|墨余穏《モーユーウェン》は皿の重なる音や話し声で賑わう酒楼の中へ入った。
|墨余穏《モーユーウェン》の姿に気づいた女将が、小走りで駆け寄る。「お客さん、お一人?」
「いや、連れがもう一人来る。入れるかい?」
女将は小さく微笑み、|墨余穏《モーユーウェン》を一番角の席に案内した。
|墨余穏《モーユーウェン》はそこに並ぶ椅子に腰掛け、一杯の茶を注文する。 辺りを見渡すと、中年太りの男達が豪快に酒を煽っていたり、若者たちが双六の賭け事に興じていたり、勝手気ままな時間がここでは流れていた。 しばらくすると、頼んでいた一杯の白茶が目の前に届く。 |墨余穏《モーユーウェン》は女将に礼を言い、揺蕩う湯気に顔をつけながら茶を啜った。 かつての|墨余穏《モーユーウェン》も、|豪剛《ハオガン》を亡くしてから本来の寂しがりやで気ままな性格が戻り、出向いた先々で何振り構わず好き勝手に振る舞っていた。|師玉寧《シーギョクニン》に恋慕を抱いているというのに、叶わぬ恋の寂しさから好きでもない女子と戯れたり、酒に溺れたりもした。懐かしさを感じながら一杯の茶を飲み終えると、意外にも早く|尊丸《ズンワン》がやってきた。
「|尊丸《ズンワン》和尚、早いね。もう終わったの?」
「うん。頼まれていた薬を渡しただけだからね。さて、何か適当に食事を頼もう。酒も呑むかい?」
「呑む!」
|墨余穏《モーユーウェン》の威勢の良い声を聞いて、|尊丸《ズンワン》は機嫌良くいくつかの料理を注文した。
それから|墨余穏《モーユーウェン》は、全てを失ったかのような複雑な感情を抱いたまま、|崑崙山《こんろんざん》へ向かった。『一人になりたい』という言葉は、|師玉寧《シーギョクニン》にとっては、拒絶とも取れる言葉なのだろう。 どうして相談もせず口走ってしまったのだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》は自分の放ってしまった言葉に、酷く後悔した。 ただ、やはり|師玉寧《シーギョクニン》は|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に想いを寄せているのだと、|墨余穏《モーユーウェン》は確信する。あの目の憂い、落胆するような仕草は、香翠天尊に何かしらの情があるからに違いない。 最愛の人が疑われるのは、|師玉寧《シーギョクニン》にとって心底心外だっただろう。 だが、|墨余穏《モーユーウェン》はどうしてもそれを拭い去ることができなかった。 金龍台門へ行く前、天台山で|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に襟元を整えてもらった時、何か特殊な力を感じた。 僅かだが、|天晋《ティェンシン》からも香翠天尊と同じ温度みたいなものを感じたのだった。 |師玉寧《シーギョクニン》にこの僅かな変化を伝えられたら良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり後悔した後、峻険な崑崙山の中腹まで|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って飛び立った。 前世の記憶を辿り、林の中をひたすら歩いていく。 すると、確かに記憶に残っていた家屋が木々の隙間から薄らと見え始めた。 (あそこだ! ) |墨余穏《モーユーウェン》は木々を掻き分けて颯爽と向かう。 家屋の敷地に到着すると、何か擦れる音が庭先から聞こえてきた。その音の方に向かって歩いていくと、中年の男が石に座って剣を磨いているではないか。 |墨余穏《モーユーウェン》は口元を緩ませ、名前を呼ぶ。「|黄轅《コウエン》先生!」 すると、中年の男は驚いた様子で|墨余穏《モーユーウェン》の方に振り向いた。 目を細め、まじまじと|墨余穏《モーユーウェン》を眺めると、研いでいた剣を放っぽり出してこちらに向かって来る。 「|豪剛《ハオガン》の|墨逸《モーイー》か?! おっと、たまげた! 本当に墨逸じゃないか〜!!」 |黄轅《コウエン》は目尻を垂れ下げた満面の笑みを浮かべて、|墨余穏《モーユーウェン》を抱き寄せた。
おぼつかない足取りで|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉風安《イェフォンアン》の元へ向かう。 葉風安の冷たくなった血塗れの頭部を拾うと、墨余穏はその場で崩れ落ち、葉風安を抱きしめながら深い愁いに沈む。その姿を見ていた|師玉寧《シーギョクニン》も目潤わせ、天を仰いで長嘆した。 憂愁に閉ざされた緑琉門は深い悲しみに包まれる。 一つの門派がこのような形で閉門するなど、誰が想像していただろうか……。未だこの現実を受け止めきれない門弟たちは、いよいよ、本格的に天台山は統治を保てなくなってきたかもしれないと、落胆の声を上げた。 その中、毅然と振る舞う数名の門弟たちの手によって三人の遺体は、|葉誉《イェユー》が信仰していた道観に綺麗にまとめられた。 天台山で供養してもらう為、残っていた一部の魂魄を霊符に納め、皆で黙祷する。 しばらくして厳かな風が吹き抜けると、|葉誉《イェユー》の側近だったという一人の男が、その霊符を|師玉寧《シーギョクニン》に渡した。「|師《シー》門主……。これから我々門派は、衰運の一途をたどるでしょう。どうか私たち緑琉門のこの無念、あなた様の手で晴らしていただきたい……。天台山の安寧を祈ります」 側近に倣い、そこにいた全ての緑琉門の門弟たちが|師玉寧《シーギョクニン》に深く頭を下げた。 |師玉寧《シーギョクニン》も受け取った霊符を白い布で包むと、緑琉門の門弟たちに深く頭を下げた。 |墨余穏《モーユーウェン》は、床に落ちていた一枚の鮮やかな翠緑の羽を見つけ、そっと拾い上げる。両面をひらひらと眺めながら、|葉風安《イェフォンアン》の面影を記憶から呼び覚まし、瞼の裏に葉風安を映す。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり|葉風安《イェフォンアン》を感じた後、彼の形見としてそれを胸元に仕舞った。 それから|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は緑琉門を後にし、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って天台山へ向かった。 二人の間に会話はなく、相変わらず重い空気だけが流れている。 道中、墨余穏はある事を思い出し、ふと口を開いた。 「そういえば、|一恩《イーエン》たちはどうしたんだ? 先に緑琉門に向かっていたはずじゃ?」 |師玉寧《シーギョクニン》は少し間を空けて答える。「急遽、天台山へ行かせた」「天台山? 何
腹部を刺された|葉風安《イェフォンアン》はその瞬間、ずっと待ち侘びていた|墨余穏《モーユーウェン》の姿を捉えた。 記憶の中に沈めていた思い出が走馬灯のように駆け巡り、|墨余穏《モーユーウェン》が見せる絶望的な眼差しを見る。 天流会で助けてくれたあの日から、|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》に想いを寄せていた。 |師玉寧《シーギョクニン》とは違う端麗な面持ちと、風が吹き抜けるような爽やかな笑みに何度も心を奪われ、脆い心に自ら心地よい風を吹かせた。墨余穏だけは常に特別であり、気まぐれな彼がいつ来ても良いようにと、緑琉門の厳重な門符を解き、私室も開放した。 数え切れない程の時間を共にし、ようやく心づもりができたと思った矢先だった。小夜嵐が軒を鳴らすように|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだという知らせが届いた。 この時、葉風安は絶望を超えた喪失感に襲われ、この世に風が存在していることすら忘れてしまう程途方に暮れた。 |葉風安《イェフォンアン》はどうにかして、|墨余穏《モーユーウェン》の魂魄を呼び戻せないかと|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の元へ悲願しに行ったが、どうしてか魂魄は見つからず、手掛かりが掴めないまま十年が過ぎてしまった。 その間に、自分と同じ気持ちでいた人が別にいたことを風の噂で聞き、それがまた敵わない相手だと知った|葉風安《イェフォンアン》は、悲恋を抱いた。 目の前にいる二人の関係性を崩す訳にはいかないと、|葉風安《イェフォンアン》は一人、自分の心に木枯らしを吹かせ、二人の幸せを願った。 「|風立《フォンリー》!!」 |墨余穏《モーユーウェン》の叫ぶ声が鳴り響く。 |葉風安《イェフォンアン》は墨余穏の声に応えるように、ほんの僅かに口元を緩ませると、口から物凄い勢いで鮮血を吐き出し、意識を失くした。 側にいた|呂熙《リューシー》が更に追い討ちをかけるかのように、鉤爪で固定していた葉風安の首を切断した。 目の前の惨劇に驚愕した|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず叫ぶ! かつてないほどの殺気を込めて胸元から呪符を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》は|呂熙《リューシー》の元に飛び掛かった。強力な神呪で呂熙の身動きを封じた後、次に墨余穏は動きを変え、|青鳴天《チンミ
「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」 |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ
|墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬
物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑