LOGIN今日は、|豪剛《ハオガン》の命日である。
|墨余穏《モーユーウェン》は 「父ちゃん、酒と桃持ってきたよ」 と言って、|豪剛《ハオガン》の墓の前でどさっと座り込んだ。 酒瓶の先についている二つの杯にそれぞれ酒を注ぎ、本人と交わすかのように、墓に杯を当てて乾杯した。 |墨余穏《モーユーウェン》は一気に飲み干し、独り呟く。 「なぁ、父ちゃん。俺、死んだはずなのに何故か甦っちまったみたいでさ……。俺、これからどうしたらいい?」 |墨余穏《モーユーウェン》は万頭を齧りながら、答えてはくれない声を待った。 今でもあの頃のように|豪剛《ハオガン》と一緒に生きていたら、こうした迷いなど生じず、くだらない事で笑い転げ、こんな暇を持て余す事もなかっただろう。 |墨余穏《モーユーウェン》は墓の横に咲いていた蒲公英を引き抜き、花弁を一枚ずつ取りながら、|豪剛《ハオガン》と出会った頃の幼少期を思い出した。あれは五歳の夏頃だっただろうか━︎━︎。
両親が流行り病で同時に死んでしまい、住んでいた家が無くなった。一人残された|墨余穏《モーユーウェン》は、路上で生活せざる得なくなり、露店から出るゴミを漁ったり、物乞いをして何とか少量の食事にありつけるという日々を過ごした。 裕福な子供たちからは、差し入れだと言って泥水や泥団子を渡され、笑われる日々。着る服も端切れのように破れ、不衛生で汚い子供だと、通りかがる老若男女に忌避された。 やがて季節は夏から冬になり雪が舞い始める。 |墨余穏《モーユーウェン》の小さな身体は、限界を迎えようとしていた。身体全体に霜焼けが広がり、目も虚ろで、遂に話すことすら出来なくなった。 するとそこに、凍死寸前だというのに、更に追い討ちをかけるかの如く、子供の体を売り飛ばす輩が|墨余穏《モーユーウェン》の前にやって来た。「ほぉ。こんな所にいい品物が落ちてるじゃないか。売ったら金になりそうだな〜。おい、立て! クソガキ!」
歯が抜け落ち、顔も黒ずんだ汚らしい輩が、横たわる|墨余穏《モーユーウェン》の腹を蹴り、無理矢理立たせようとした。
凍傷で足の感覚を失っていた|墨余穏《モーユーウェン》は、当然立つ事も出来ず、その場に崩れ落ちる。「チッ。このクソガキ。立てやしないのか。なら、引き摺っていく。どうせその足も煮て焼かれるだけだからな」
衣の首元を掴まれた|墨余穏《モーユーウェン》は何も言えず、ただひたすらに引き摺られた。
もはや、痛みなど何も感じない。 生きる希望もなければ、恐怖もない。 残された選択は死しかないと、涙も出なくなった。 しばらく引き摺られていると、急に輩が立ち止まった。「おい! 何だお前! そこをどけ! 俺の邪魔をする気か?!」
輩の目の前に、どうやら誰かがいるようだ。
|墨余穏《モーユーウェン》は何も抵抗せず目を瞑り、耳だけで様子を伺う。「いやいや、子どもをそんな雑に扱うなんて、善人がすることじゃない。その子どもをどうする気だ?」
「はぁ? 売りに行くんだよ! 子供の肉は美味いからな! 金になるんだ! そこをどけ!」
輩の言葉に屈することもせず、男は引き摺られていた|墨余穏《モーユーウェン》を、「ふぅ〜ん」と言いながら覗き込むように見遣った。
男はまた続ける。「酷い有り様だな……。お前がやったのか?」
「違げぇーよ! 外で拾ったんだ。真冬に一人で寂しく死にそうだったからよ、俺が拾ってやったんだ。誰かに煮て焼かれた方が、こういう捨てられた子供は幸せだろうよ?」
|墨余穏《モーユーウェン》が薄らと目を開けると、男と目が合った。
その男は目鼻立ちが整い、柔らかい表情とは裏腹に、背が高く堂々たる体躯だった。 男は|墨余穏《モーユーウェン》を見つめながら、口元を緩める。「ふ〜ん。なら、いくらで売ってくれるんだ?」
「高いぞ。お前は、いくら出せるんだよ?!」
「ん〜、これでどうだ? 今から行こうとしているお前の親分より、高値だと思うが」
その男は金の塊を輩に差し出した。
輩はそれを奪い取ろうとしたが、男は金を引っ込める。「だめだめ。先にこの子を渡してくれないと。ほら、さっさと紐を解いて。早く」
輩は金の塊が貰えると顔をニヤつかせて、霜焼けで真っ赤に染まった|墨余穏《モーユーウェン》の両手、両足の紐を解いた。
そして、汚い歯を見せながら、|墨余穏《モーユーウェン》を男の方へ向かって蹴飛ばす! その行動を見た男は、目を細めながら帯刀を抜き出し、輩の足を斬り落とした。「あぁーーーっ!! な、何しやがる!」
「子どもを蹴るようなそんな足など要らんだろ? 誰がお前のようなゴミに金をやるかよ! この子は俺が預かった。じゃあな」
そう言って、男は震えている小さな|墨余穏《モーユーウェン》を抱き抱えた。
「よしよし、怖かったな。もう大丈夫だ。おじちゃんと一緒に帰ろう」
|墨余穏《モーユーウェン》は大きな胸元に抱き寄せられ、その温もりを肌で感じた途端、蓋をしていた壺から水が溢れ出すかのように、しゃくり上げながら涙を流した。
こんな愛情を感じたのはいつぶりだろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は、男の襟元をグッと掴み、離れまいとしがみついた。 「はははっ。可愛いやつだ! 俺は|豪剛《ハオガン》。お前の名は?」「モ、モー……、ユー……、ウェン……」
「いい名じゃないか。よし、今から少し走るからな。しっかりしがみついとけよ!」
そう言うと|豪剛《ハオガン》は呪符を胸元から取り出し、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って走り出した。
|墨余穏《モーユーウェン》は揺られながら|豪剛《ハオガン》の顔を下から見上げる。 そこには、大切なものを奪い返したような誇らしげな表情があった。|豪剛《ハオガン》の声が、記憶の中で木霊する。
「いいか、|墨余《モーユー》。強き者を味方にし、弱き者には手を差し伸べろ。賢く生きる奴は、そうやって自らの貧しさを遠ざける。生きる意味を知りたければ、先ずは足を知り、愛を向けるんだ」暖かい風が|墨余穏《モーユーウェン》の頬を伝い、|墨余穏《モーユーウェン》を現実の世界に戻した。
|墨余穏《モーユーウェン》は流れている雲を追いかけるように、透き通った青空を見上げる。(父ちゃん。今世では愛を向けられるだろうか……)
一瞬、|師玉寧《シーギョクニン》の顔が浮かぶも、|墨余穏《モーユーウェン》は、自信無さげに大きく息を吐いた。
しばらく茫然としていると、晩霞が空を赤く染め始める。 長居し過ぎたと|墨余穏《モーユーウェン》は供えていた酒を墓にかけ、立ち上がった。 すると、遠くから「|墨逸《モーイー》〜」と呼ぶ声が聞こえてくる。 |尊丸《ズンワン》だ。「|墨逸《モーイー》ここにいたんだね。そうか、今日は|豪剛《ハオガン》道長の命日だったね。邪魔をしてすまない」
「いいよ。どうしたの?」
「少し|墨逸《モーイー》に付き合ってもらいたくてね」
|尊丸《ズンワン》は、先日行った町のある亭主から、尊仙廟の庭で採れる特殊な薬草を買いたいと頼まれていたらしく、それを亭主に届けたいとのことだった。
近頃の夜道は危険が伴う。 つい先日、|墨余穏《モーユーウェン》も黄山へ幻妖を退治しに行ったばかりだ。 |墨余穏《モーユーウェン》は二つ返事で|尊丸《ズンワン》の護衛も兼ねて、町まで同行することにした。日が暮れ、先日行った昼間の町の景色とは打って変わり、夜も露店で賑わいを見せ、相変わらず活気があった。
「|墨逸《モーイー》。私はここの角を曲がった所に行ってくるから、ここの店に入って待っていてくれるかな?」
|尊丸《ズンワン》は目の前にある酒楼を指差して、|墨余穏《モーユーウェン》にここで待つよう促した。
「分かったよ。じゃ、中で待ってる」
角を曲がる|尊丸《ズンワン》の姿を見届け、|墨余穏《モーユーウェン》は皿の重なる音や話し声で賑わう酒楼の中へ入った。
|墨余穏《モーユーウェン》の姿に気づいた女将が、小走りで駆け寄る。「お客さん、お一人?」
「いや、連れがもう一人来る。入れるかい?」
女将は小さく微笑み、|墨余穏《モーユーウェン》を一番角の席に案内した。
|墨余穏《モーユーウェン》はそこに並ぶ椅子に腰掛け、一杯の茶を注文する。 辺りを見渡すと、中年太りの男達が豪快に酒を煽っていたり、若者たちが双六の賭け事に興じていたり、勝手気ままな時間がここでは流れていた。 しばらくすると、頼んでいた一杯の白茶が目の前に届く。 |墨余穏《モーユーウェン》は女将に礼を言い、揺蕩う湯気に顔をつけながら茶を啜った。 かつての|墨余穏《モーユーウェン》も、|豪剛《ハオガン》を亡くしてから本来の寂しがりやで気ままな性格が戻り、出向いた先々で何振り構わず好き勝手に振る舞っていた。|師玉寧《シーギョクニン》に恋慕を抱いているというのに、叶わぬ恋の寂しさから好きでもない女子と戯れたり、酒に溺れたりもした。懐かしさを感じながら一杯の茶を飲み終えると、意外にも早く|尊丸《ズンワン》がやってきた。
「|尊丸《ズンワン》和尚、早いね。もう終わったの?」
「うん。頼まれていた薬を渡しただけだからね。さて、何か適当に食事を頼もう。酒も呑むかい?」
「呑む!」
|墨余穏《モーユーウェン》の威勢の良い声を聞いて、|尊丸《ズンワン》は機嫌良くいくつかの料理を注文した。
それから間も無くして天台山は大きな観音廟として新しく建立され、全て寒仙雪門が管轄することとなった。 三神寳と|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》は同じ廟で祀られ、かつての|香翠天尊《シィアンツイてんずん》と|深月天尊《シェンユエてんずん》も成仏するという意味で違う廟に位牌が納められた。かつての緑琉門にいた|葉風安《イェフォンアン》たちの位牌も天台山に集約され、いつでも故人を偲べるように配慮した。 それぞれの門派はというと、大篆門の門主・|高書翰《ガオシューハン》は道玄天尊の後を追うようにこの世を去り、後継者がいないという理由で大篆門は閉門となった。 金龍台門は|金冠明《ジングァンミン》が正式に門主となり、新しく家督を担ぐこととなった。あの邪教の鳥鴉盟はというと、盟主の死によって強制的に閉門。罪を犯した者は流刑され、その後も|師玉寧《シーギョクニン》が厳しく罰した。 寒仙雪門では、|墨余穏《モーユーウェン》が正式に寒仙雪門に入内し、師玉寧の伴侶となった。 |墨余穏《モーユーウェン》は相変わらず、玉庵のカウチでゴロゴロしながら、|師玉寧《シーギョクニン》の美しい横顔を眺めている。入内してからというもの、常に一緒にいる為あんなに嫌いだった一葉茶も難なく飲めるようになった。 一葉茶を喉に通すと、|墨余穏《モーユーウェン》はふと尋ねる。「ねぇ、|賢寧《シェンニン》兄。|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》が言っていたシユって人は誰なの?」「ハンリ殿から聞いた話なんだが、道玄天尊が若き頃に人攫いに遭った若き先代と幼女のハンリ殿を助けたそうだ。それからしばらく天台山で面倒を見ていたそうで、道玄天尊と先代は互いに恋慕を抱いたそうだが、叶わぬ悲恋で終わったらしい。その時抱いた悲しみとこの想いは永遠に忘れないという意味で、道玄天尊の|神漣剣《しんれんけん》と先代の|神翼鏡《しんよくきょう》、それぞれの秘宝に特殊な守護術を封じて三神寳として祀ったらしい」「へぇ〜。なんか深い愛だなぁ……」 |墨余穏《モーユーウェン》はしみじみと目を細めながら、一葉茶を啜った。 庭から入ってきた黄色い蝶が|師玉寧《シーギョクニン》の人差し指に止まる。「想いが強ければ強いほど、失う痛みは大きい。私は道玄天尊のお気持ちが凄くよく分かる」「だから、俺が死んだ後閉関してたんだ……」 黄色い
|香翠天尊《シィアンツイてんずん》は言うまでもなく、無惨な姿となって力尽きた。 |道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の凄まじい威力を見せつけられた|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、その場で喫驚していた。 「いやはや、たまげたね〜。何という威力と人情劇なんだ。素晴らしいよ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》さんよ。守ってきた盟主と実の妹を手に掛けるなんて、|李世《リーヨ》君といい、二人はお心が強いの〜」 ひどく感嘆した様子で拍手をするように、|呂熙《リューシー》は胸の前で鉤爪を鳴らした。 しかし、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》はこれまでの力を使い果たしてしまったのか、突然吐血しその場に項垂れてしまった。一緒に来ていた天台山の道士たちが駆けつけるも、いつ力尽きてもおかしくない様子だ。「滑稽だなぁ。天尊と呼ばれた高貴なお方も所詮はただの人間。人間の裁量などその程度なものなのだよ」 口元を一文字に引き結んで、|呂熙《リューシー》は気怠く言う。凝り固まった首をゴリっと鳴らすと、|墨余穏《モーユーウェン》に向かって濁った目を据わらせた。「さぁ、とっとと終わらせようじゃないか」「そうだな。俺も早く終わらせて、|師玉寧《シーギョクニン》と三礼の儀をしたいからさ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は何の躊躇もなく真顔で言うと、その言葉を聞いていた|李世《リーヨ》は顔を顰め、「こんな奴と三礼なんて世も末だ!」と吐き捨てた。 すると、凍てつく光芒を放った剣が|李世《リーヨ》の頬を掠め、|李世《リーヨ》の背後にあった大木に勢いよく突き刺さった。「減らず口も大概にしないか」 重厚感のある低い声で、|師玉寧《シーギョクニン》は|李世《リーヨ》を凍らすように一瞬で黙らせる。 |師玉寧《シーギョクニン》の気迫に恐れ慄いたのか、|李世《リーヨ》はガタガタと歯を震わせ始め、それ以降口を閉ざした。|師玉寧《シーギョクニン》は念の為、|李世《リーヨ》の身体に字符を貼り付け、身動きを封じた。「あはははっ! 美人を怒らすと怖いってことを肝に銘じておけ、世間知らずの坊ちゃんよ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》はケラケラとそう言い終えると、|豪剛《ハオガン》から譲り受けた剣を鞘からスルッと抜き出し、刃先を|呂熙《リューシー》に向けた。 何があっても|呂熙
懇ろな関係になった|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は、二人で飲んだ|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の同化呑術の効果も相まって、無敵だと言わんばかりに勢いをつけていた。 鳥鴉盟たちから決闘状が寒仙雪門に届いたのは、あれから数日経ったある日の事だった。 「いよいよだな、|墨逸《モーイー》」 「そうだね、まぁ大丈夫っしょ。俺ら最強だし。ただ、|賢寧《シェンニン》兄の好きだったお姉さんを始末しなきゃなんないからな〜。どうなるんだか」 |墨余穏《モーユーウェン》が横目に冗談めかして言うと、|師玉寧《シーギョクニン》は一葉茶を啜りながら目を細めた。 「私が好きだった? 何かの間違いではないか? 私はいつも、力を封じ込められてしまっていただけだ」 「え? 見つめていたじゃん。こう、好きで好きで堪らないって感じで〜」 相手を弄るように、|墨余穏《モーユーウェン》はジーっと|師玉寧《シーギョクニン》を見つめる。 |師玉寧《シーギョクニン》は小さく鼻息を漏らし、やれやれと言った様子で首を横に振った。「動きを止められていただけだ。その時から気づいていた。この人は、人間の動きを瞬時に止める力があるのだと。だから、そこをいかに打破するかが重要だ」 「あはははっ! 余裕だって。あの人たちには弱点があるんだ。それを全面に出せば、皆途端に弱くなる」 眉間に皺を寄せた|師玉寧《シーギョクニン》は、何を企んでいるんだ? とでも言いたげに|墨余穏《モーユーウェン》を見遣る。 「まぁ、後で見ててよ。とりあえず、突厥は崑崙山の爺ちゃん先生たちに任せて、|賢寧《シェンニン》兄はカラス達を頼むよ。そうだ、大篆門の門主は来るの?」 「いや、|高書翰《ガオシューハン》門主は来ないだろう。大病を患ったと知らせを受けた。来れたとしても|黄轅《コウエン》師範が黙っていないはずだ」 「確かに。友人を追い出した門派に情はないだろうね」 |墨余穏《モーユーウェン》は他人事のように言い終えると、書き留めておいた呪符を胸元に仕舞った。 |黄轅《コウエン》に磨いてもらった|豪剛《ハオガン》の剣も持って、|師玉寧《シーギョクニン》の支度を扉の前で待つ。 恐らくこの戦いで、長年続いた天台山の歴史は幕を下ろすだろう。今まで保たれていた統治は完全に崩壊し
目を覚ました|墨余穏《モーユーウェン》は、|黄轅《コウエン》が言っていた翡翠泉へ向かっていた。 ようやく連日連夜の修行から解放された|墨余穏《モーユーウェン》は、込み上げる疲れを感じると同時に、己の心身が一回りも二回りも大きくなっていることに気づく。 体が重くなっていることは薄々気づいてはいたが、こんなにも厚みがあっただろうか。 |墨余穏《モーユーウェン》は自分で、自分の逞しくなった二の腕や太腿を触ってみる。 |黄轅《コウエン》先生の鬼の修行は筋肥大にもなるのだなぁ、と内なる力を全面に引き出してくれた|黄轅《コウエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は思わず感嘆の息を漏らした。 そんな修行の成果を噛み締めながら歩いていると、生い茂る草むらから澄み切った翡翠の色をした泉が見えてきた。 少し奥へと進むと水面を激しく打ちつける滝の音が聞こえてくる。滝の側まで行くと、その辺りは白い湯気が漂っており、墨余穏は指先を泉に入れて温度を確かめた。「お、あったかいじゃないか! 珍しいな、温泉の滝なんて」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を言いながら、衣を脱ぎ始めた。露わになった傷だらけの身体をゆっくり泉の中に沈め、痛みを堪える。 滝の側までゆっくり移動し、|墨余穏《モーユーウェン》はしばらく傷に染みていく痛みと戦いながら泉に浸かった。 すると、ちゃぽんと水面を鳴らしながら何者かがこちらに向かって歩いてくるのが分かった。|墨余穏《モーユーウェン》は女性かもしれないと思い、そっと滝の裏側にある空洞に身を隠した。 歩き方がゆっくりでどこかぎこちない。 女性というよりも老人か誰かだろうと様子を見ていると、白い肌をした長身の美しい男が現れた。 |墨余穏《モーユーウェン》の胸が打ち破るように高鳴った。 どうしてここに……。 どうしてここに、|師玉寧《シーギョクニン》が居るんだ?! |墨余穏《モーユーウェン》は、「何してるんだ? |賢寧《シェンニン》兄!」 と思わず叫ぶ。 目の前に突如現れた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、師玉寧も目を丸くしていた。「傷が治ると聞いた」 「誰に?」「雲師の|黄轅《コウエン》師範に」 記憶が戻っているのだと確信した|墨余穏《モーユーウェン》は、「俺のことは分かるか?」と尋ねた。 すると、|師玉寧《シーギョクニ
翌朝、|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に|金王《ジンワン》から受け取った十包の薬を渡し、修行先である|崑崙山《こんろんざん》へ再び戻ることを伝えた。 「そんな。寒仙雪門には部屋もいくつかありますし、今すぐお戻りにならなくても……」 「いや、時間が無いんだ。|賢寧《シェンニン》兄が回復したら、すぐに鳥鴉盟のところへ行かなきゃならない。今のうちに修行しておきたいんだ」 |墨余穏《モーユーウェン》は先輩らしく、安心させるような逞しい笑みを見せて、|一恩《イーエン》の両肩を軽く叩いた。 そこまでしてどうしてですか、と肩を落とす|一恩《イーエン》に、|墨余穏《モーユーウェン》は頬を掻きながら照れ臭く言う。「好きな人の前ではカッコつけたいだろ」 賢い|一恩《イーエン》は顔と耳を瞬時に赤らめ、「そうですね」と言った。 続けて、何かを思い出したかのように、突然「あ!」と切り出す。「何だよ、急に」「|師《シー》宗主のお部屋を綺麗にしていた時、萎れた一輪の水仙が落ちていました。あれは、恐らく|墨逸《モーイー》先輩が持って来られたものですよね? 拾って小さな瓶に入れておいたら見事に咲き戻りまして……」「……」「……それを|師《シー》宗主の枕元に置いておいたら、昨日それをずっと穏やかな目で眺めてらっしゃいました。ご記憶が戻るのも時間の問題かもしれません」 |墨余穏《モーユーウェン》は少し間を置いて、「……だといいな」と言って小さく微笑んだ。記憶の片隅に残っている物を見ると、過去の記憶が蘇る話はよく聞く。|墨余穏《モーユーウェン》にも、一筋の希望の光が見えた気がした。「じゃ、|一恩《イーエン》。あとは頼んだぞ。何かあれば、また知らせてくれ」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう言って、手を振りながら寒仙雪門を後にし、乗蹻術を放出して|黄轅《コウエン》のいる崑崙山へ向かった。 ◆ ほんの数日で戻ってきた|墨余穏《モーユーウェン》を見て、|黄轅《コウエン》は驚いた!「|墨逸《モーイー》! もういいのか?」「あ、|黄轅《コウエン》先生! いやぁ〜、それが……」 |墨余穏《モーユーウェン》は頭を掻きながら、|師玉寧《シーギョクニン》が思った以上に深刻であることを報告した。 そして一番恐れていた黒幕の正体も。「やはり、私の読み通りか。
床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持